ペリー来航といえば「黒船が浦賀に現れた」という事実は多くの人が知っています。
しかし実際に黒船がどこへ停泊し、どこに上陸し、どこで交渉が行われたのかまで正確に理解している人は意外と多くありません。
黒船来航は歴史の授業に登場する有名な事件ですが、現地の地形や位置関係を知ることで、初めて立体的に理解できる出来事でもあります。
黒船がどの湾に入り、どの浜から上陸し、どの役所で交渉が行われたのかを整理すると、ペリー来航の全体像が驚くほどわかりやすくなります。
本記事では、黒船が停泊した浦賀沖の位置、ペリーが実際に上陸した久里浜、そして交渉が行われた浦賀奉行所跡など、現在の横須賀市内に残る史跡を地理的に整理しながら解説します。
「ペリーが来た場所を実際に歩いてみたい」「観光しながら歴史も理解したい」という人が現地をイメージしやすいよう、位置関係をていねいにまとめています。
ペリー来航の地・浦賀はどこ?地理的な重要性と選ばれた理由
黒船が姿を現したのは、現在の神奈川県横須賀市東側にある浦賀という湾です。
浦賀は三浦半島のほぼ中間に位置し、外洋に開けつつも奥行きのある天然の良港として江戸時代から重要視されてきました。
江戸に出入りする船のほとんどは浦賀水道を通る必要があり、浦賀は江戸の海の玄関口として海防の最前線に位置づけられていました。
そのため幕府は浦賀に浦賀奉行所を置き、外国船の監視や航路管理を行っていたのです。
黒船がなぜこの浦賀を選んだのかを深掘りしたい人は、ペリーが浦賀に来航した理由と浦賀沖はどこの記事がわかりやすくおすすめです。
また、来航の背景をより大きな視点で理解したい場合は、ペリーが日本に来た理由も合わせて読むと、浦賀が選ばれた理由がより明確になります。
なぜ長崎ではなく浦賀に来航した?ペリー来航長崎との比較
当時、日本で外国と接触する港といえば長崎の出島が一般的でした。しかし、ペリーが「長崎ではなく浦賀」に来航したのには明確な理由があります。
長崎はオランダ・中国との限定的な外交窓口であり、アメリカが求めた“正式な国交樹立”や“開国要求”を実現できない場所でした。
また長崎は江戸から遠く、政治的な圧力としての効果も弱かったのです。その点、浦賀は江戸のすぐ近くで、将軍に直接影響を与える象徴的な地でした。
浦賀沖に黒船が現れたという事実そのものが、幕府にとって極めて強いインパクトを持ちました。これらの事情から、ペリーは長崎を避け、あえて浦賀を選んだと考えられています。
ペリー来航の地として浦賀が選ばれた地形的メリットとは?
浦賀が選ばれたのは政治的な理由だけではありません。地形面でも浦賀は非常に優れていました。浦賀沖は水深が深く、大型艦船でも安全に停泊できる海域でした。
当時の黒船は蒸気船を含む巨大艦隊であり、浅瀬の多い港内に入り込むと座礁の危険が高かったため、湾外に安全に展開できる浦賀は理想的な場所でした。
また浦賀は周囲が山地に囲まれ、監視に適した地形を備えていたため、幕府もここに浦賀奉行所を設置しました。
ペリー側も、交渉に応じる役所が近くにあることを事前に把握しており、話が通じやすいという利点を重要視したとされています。
なぜペリーは浦賀に来航したのか
ペリーが数ある港の中から浦賀を目指したのは、地理・軍事・政治の3つが揃っていたからです。
まず浦賀は江戸に最も近い海の要衝であり、黒船がここに現れること自体が江戸への強烈な圧力になりました。
また浦賀には外国船対応の経験がある浦賀奉行所があり、交渉相手として最適でした。
さらに浦賀沖は深い水深を持ち、大型の蒸気フリゲート艦でも安全に停泊できたため、黒船艦隊にとって作戦行動が取りやすい海域だったのです。
これらの理由が重なり、浦賀は“ペリー来航の地”として最も合理的な場所だったといえます。
ペリーは長崎に来たのか?誤解が生まれた理由と歴史的背景
「ペリーは長崎に来た」という認識を持っている人は非常に多いですが、実際にはペリーは来航時も再来航時も長崎には来ていません。では、なぜこの誤解が広まったのでしょうか。
最大の理由は、江戸時代の日本が外国船と正式に交渉できる唯一の港として「長崎・出島」を定めていたためです。
幕府は黒船来航時にもペリーに対し「長崎へ回航せよ」と要求しました。しかし、ペリーはこれを拒否し、浦賀での交渉を強引に進めました。
さらに、同じ時期に日本へ来航したロシアの使節・プチャーチン(ディアナ号)が長崎に入港したため、歴史的な記憶が混同され「黒船=長崎」というイメージが定着したとも言われています。
誤解を解消するために、当時の来航者を比較すると次のようになります。
| 来航国 | 指揮官 | 来航年 | 来航場所 | 目的 |
|---|---|---|---|---|
| アメリカ | ペリー | 1853(嘉永6) | 浦賀(神奈川県横須賀市) | 開国要求・条約締結 |
| アメリカ | ペリー(再来航) | 1854(嘉永7) | 横浜・神奈川宿 | 日米和親条約の締結 |
| ロシア | プチャーチン | 1853〜1854 | 長崎 | 開港交渉(のちに下田開港) |
このように「長崎=ロシア」「浦賀=ペリー」という正しい区別を知ると、黒船来航の歴史がより明確に理解できます。
黒船は浦賀沖のどこに停泊したのか?実際の海域を位置関係で解説
「浦賀に黒船が来た」といっても実際には浦賀港の中まで入ったわけではありません。黒船は浦賀港の外側にあたる浦賀沖の海域に展開し港ににらみを利かせるように停泊していました。
歴史資料や航海図をもとにすると黒船艦隊四隻は次のような範囲に分散して停泊していたとされます。
・千代ヶ崎砲台の沖合
・観音崎の西側海域
これら三つのポイントはいずれも水深があり大型艦でも安全に錨を下ろせる場所です。同時に浦賀水道全体を見渡しやすく江戸湾の出入りを抑えられる軍事的な優位性もありました。
浦賀港入口付近に停泊した黒船
主力艦の一部は浦賀港の入口付近西叶神社の沖あたりに停泊していたといわれています。この位置は浦賀奉行所跡や港の中心部に比較的近く交渉のための小舟を往復させやすい距離でした。
現在も西叶神社の境内から海を眺めると浦賀水道を行き交う船がよく見え黒船が構えていた位置を想像しやすい景観が広がっています。
千代ヶ崎砲台跡の沖合に展開した艦隊
千代ヶ崎砲台跡の沖合も黒船の停泊海域のひとつとされています。
千代ヶ崎は東京湾の入り口を見張る高台で明治以降には大規模な砲台が整備されましたがペリー来航以前から海防上の要地として意識されていました。
この沖合に艦船を置くことで黒船は江戸湾へ出入りする他国船や日本側の動きを広く見渡すことができました。
横須賀の海岸線を高い位置から眺めると黒船がいかに有利な場所を押さえていたかがよく分かります。
観音崎の西側海域に布陣した黒船
観音崎の西側も重要な停泊位置でした。観音崎は東京湾の入り口にあたり灯台や砲台が設けられてきた場所でここから浦賀方面を一望できます。
黒船は江戸湾への入り口にあたるこのエリアを押さえることで日本側に強い圧力をかけつつ自らの安全も確保していたと考えられます。
現在観音崎公園や観音崎灯台から海を眺めると黒船が展開していた海域を俯瞰することができ当時の緊張感を想像しやすいでしょう。
ペリーはどこから上陸したのか?黒船来航の陸側の場所を整理
黒船が浦賀沖に現れたあと、ペリーが最初に足を踏み入れた場所は浦賀の岸ではなく久里浜の浜辺でした。
このため、教科書で「浦賀に来航」と学んだ人の多くが浦賀の港に上陸したと誤解しやすいのですが、実際の上陸地点は現在の久里浜海岸周辺です。
久里浜はなだらかな砂浜が広がる地形で、大勢の人が集まりやすく、儀式を行う場としても適していました。
幕府側は上陸地点として久里浜を指定し、正式な応接の場として整えたと考えられています。
ペリーが上陸した久里浜の現在の様子
ペリーが上陸したとされる場所には現在「ペリー公園」が整備されています。園内には上陸記念碑やペリー記念館があり、黒船来航に関する資料や当時の模型などを見ることができます。
海岸線に立って浦賀沖の方向を眺めると、黒船が停泊し、そこからボートを下ろして久里浜へ向かった当時の様子を思い描きやすく、歴史と風景が重なる貴重なスポットです。
横須賀観光で黒船関連のスポットを巡る場合は、浦賀だけでなく久里浜にもぜひ足を運びたい場所です。
久里浜が上陸地点として選ばれた理由
久里浜が上陸地点に選ばれた理由には、いくつかの地形的・政治的な要素があります。
第一に、久里浜の海岸は遠浅で平坦な砂浜が広がっており、大人数が集まって儀式を行うには最適な地形でした。
浦賀港内は傾斜が急で岩場も多かったため、重装備の兵士や使節団が上陸するには不向きでした。
第二に、幕府側はペリー艦隊との交渉を浦賀奉行所で行う方針を立てていたため、上陸地点は奉行所から距離がありつつも人員配置がしやすい久里浜が適していました。
第三に、黒船の停泊位置から久里浜は比較的近く、船から上陸ボートを安全に着岸させられる環境が整っていたことも理由の一つと考えられています。
こうした複数の要因が重なり、久里浜が正式な上陸地点として選ばれたとされています。
上陸後のペリー率いる使節団はどこへ向かったのか?
久里浜に上陸したペリー率いる使節団は、幕府の誘導によって仮設の応接所へ案内され、そこで日本側代表と最初の交渉を行いました。
この応接所は現在の「ペリー公園」の奥付近に設けられていたとされ、周辺には幕府が急遽設置した見張り台や陣屋があったと記録されています。
上陸儀式を終えた後、ペリー側は正式な国書(フィルモア大統領の親書)を手渡し、幕府側は今後の対応について協議を開始しました。
なお、上陸後に浦賀奉行所へ直接向かったわけではなく、当初の交渉は久里浜周辺で行われています。こうした陸側の動きは黒船来航の歴史を立体的に理解する重要な要素です。
浦賀奉行所と交渉が行われた場所はどこか
黒船来航で重要な役割を果たしたのが浦賀奉行所です。ペリーが久里浜に上陸したあと、実務的な交渉や連絡の多くは浦賀奉行所を通じて行われました。
そのため「黒船が来た場所」を理解するには上陸地だけでなく、浦賀奉行所の位置もセットで押さえておく必要があります。
来航の背景をさらに深く知りたい場合は、ペリー来航はなぜ起きたのかも参考になります。
浦賀奉行所跡は現在どこにあるのか
浦賀奉行所は浦賀港を見渡せる場所に設置されていました。
現在は建物こそ残っていませんが浦賀港の奥側に「浦賀奉行所跡」と記された碑や説明板が整備されどこに役所があったのかが分かるようになっています。
最寄りは京急浦賀駅で駅から港の方へ歩いていくと湾の突き当たり付近に跡地があります。
ここから港口方向を眺めると黒船が停泊していた浦賀沖の方向が一望でき当時奉行所の役人たちがどのような景色を見ていたのかをイメージしやすくなります。
叶神社とペリー来航の関わり
浦賀には東西に一対となる叶神社があり地元の人々に古くから信仰されてきました。黒船来航の際には浦賀の町全体が緊張に包まれ人々は安全や国の行く末を祈ったといわれています。
西叶神社は浦賀港の西岸に位置し黒船が停泊していた方向を望むことができます。東叶神社は港の対岸にあり両社を船で行き来できることから今でも「渡し船」を使って参拝することができます。
浦賀奉行所跡と叶神社を歩いて回ると奉行所のあった場所港を見守ってきた神社黒船が停泊した方向といった地理関係が一度に把握できるため歴史散策の起点として最適です。
浦賀周辺の黒船関連スポット一覧
浦賀周辺にはペリー来航に関係するスポットがいくつか点在しています。現地を歩く際には次のようなポイントを地図で確認してから出かけると効率よく巡ることができます。
| 場所 | 概要 |
|---|---|
| 浦賀奉行所跡 | 黒船対応の中心となった幕府役所の跡地 |
| 西叶神社 | 浦賀港西岸にある神社で浦賀沖を望める |
| 東叶神社 | 港の対岸にある神社で渡し船での参拝も可能 |
| 浦賀の渡し | 東西の港を結ぶ小さな渡し舟で港内の雰囲気を味わえる |
これらの場所は徒歩でも回れる距離にまとまっているため半日ほどあればゆっくり見学することができます。
久里浜方面のペリー公園と組み合わせれば黒船来航の「海」「港」「上陸地」を一度の旅でつなげて理解できるでしょう。
横須賀でペリー来航の場所をめぐるおすすめ観光ルート
黒船が来た場所を実際に歩いてたどると歴史がぐっと身近に感じられます。
横須賀市内には浦賀・久里浜・観音崎などペリー来航とゆかりの深いエリアが点在しており、目的や所要時間に応じてルートを組み立てるのがおすすめです。
また、現在の港の姿を海上から見学できる横須賀の空母を見たいなら軍港めぐりと組み合わせると、黒船来航から現代の港の役割まで、より立体的に理解できます。
浦賀中心の歴史散策コース
まずは浦賀エリアだけをじっくり歩くコースです。京急浦賀駅を起点に浦賀港周辺のスポットを一周するように歩けば黒船来航の舞台となった港町の雰囲気を味わえます。
歩き方の一例としては次のような順番が分かりやすいでしょう。
- 浦賀駅から浦賀奉行所跡へ向かう
- 港を眺めながら西叶神社へ参拝する
- 渡し舟で東叶神社側へ渡る
- 港全体と浦賀沖の方向を眺めながら駅方面へ戻る
このコースだけでも黒船が停泊した海域奉行所の位置地元の信仰の場港の形状といった要素が自然に頭に入ってきます。
短時間で歩けるため半日観光や他の横須賀スポットと組み合わせるプランにも向いています。
久里浜上陸地とセットで巡るコース
時間に余裕があれば浦賀に加えて久里浜のペリー公園にも足を伸ばすのがおすすめです。
浦賀が黒船来航の舞台だとすれば久里浜はペリーが実際に日本の地を踏んだ場所であり両方を訪れることで歴史の流れがより鮮明になります。
久里浜側ではペリー公園の上陸記念碑やペリー記念館周辺を中心に歩くとよいでしょう。
ペリー公園の海岸からは浦賀水道の広がりを眺めることができ黒船がどの方向から現れどのように上陸したのかを想像しやすくなります。
観音崎方面まで足を伸ばすロングコース
もう一歩踏み込んで黒船が展開していた海域全体を体感したい人には観音崎方面まで歩くロングコースも魅力的です。
観音崎公園内には砲台跡や展望ポイントがあり東京湾の入口と浦賀水道を広い視野で眺めることができます。
ここからの眺めを知ると黒船がどの位置を押さえれば江戸湾全体に強い影響力を持てるかが感覚的に理解できるようになります。
歴史好きな人や景色を楽しみたい人には特におすすめのエリアです。
横須賀で黒船来航の舞台をめぐる見どころと歴史のポイント
横須賀・浦賀周辺には黒船来航に関係する史跡が多く残されており、現地を歩くことで教科書には載らない“地形と歴史のつながり”を体感できます。
黒船が実際に停泊した海域、上陸した浜、監視にあたった奉行所、それらを見守ってきた神社など複数の視点から歴史を理解できるのがこの地域の魅力です。
あわせて、旧要塞跡や自然が残る無人島の猿島にも足を伸ばすと、横須賀の海と歴史のつながりをより立体的に感じられます。
浦賀港から見た黒船の「位置関係」を理解すると歴史が深まる
黒船来航を正しく理解するには黒船の停泊地と陸側の施設がどのように配置されていたのかイメージすることが大切です。
浦賀港は入り江になっていて港口は狭く湾内へ侵入しにくい構造をしています。そのためペリー艦隊は港内には入らず港口の外側=「浦賀沖」に停泊しました。
ここから千代ヶ崎砲台跡や観音崎方面を視界に入れつつ幕府の対応を待ち浦賀奉行所と交渉を行ったのです。
実際に港周辺や高台から眺めると黒船が停泊した海域がどれほど港に近くどれだけ威圧感のある位置にいたかがよく分かります。
黒船が日本を驚かせた背景を現地で知る
浦賀で黒船を目撃した当時の人々は蒸気船の黒い煙大砲の並ぶ巨大な船体不気味なサイレンにも似た汽笛など見たことのない存在に恐怖したと記録されています。
浦賀の海沿いに立つと太平洋側の広い海が視界に入り“なぜここが来航の舞台だったのか”がよく理解できます。
- 江戸へ向かう入口となる浦賀水道の要衝
- 日本の沿岸警備が手薄だった海域
- 港の構造上防御しにくい地形
これらの条件が重なりペリーは浦賀沖を来航地に選んだのです。
浦賀・久里浜・観音崎の3エリアをめぐると黒船来航が立体的に理解できる
黒船来航の歴史を深く知りたい人には「浦賀」「久里浜」「観音崎」の3エリアを巡ることをおすすめします。
浦賀では幕府の対応と港の地形久里浜では上陸と交渉の始まり観音崎では海防の視点と黒船の位置関係を立体的に理解できます。
・久里浜=ペリー上陸の現場
・観音崎=黒船の停泊海域を見渡せる高台
これらの3地点はバスや車でもアクセスでき徒歩でも順番に巡れるため歴史散策コースとして高い人気があります。
ペリーが来航した場所を知ると横須賀の歴史がもっと面白くなる
ペリーが来航した場所は「横須賀の浦賀」と広く知られていますが実際は浦賀港の入り口にあたる浦賀沖に停泊し久里浜に上陸しています。
黒船は港内に入らず外側に構えて幕府に圧力をかけながら交渉を進めました。
浦賀奉行所跡叶神社久里浜のペリー公園観音崎の展望ポイントなど現地を実際に歩くと歴史の流れや地形の意味がよく理解できます。
地図で見るだけでは分からない歴史の立体感が横須賀には残っており歴史散策・観光どちらの面からも非常に魅力的なエリアです。
これから浦賀や久里浜を訪れる人はぜひ黒船が停泊した海域奉行所の場所上陸地点の順に巡ってみてください。
教科書では学べない“リアルな幕末”を体感でき横須賀の旅が一段と深く楽しめるはずです。
